拒否すべきではないこと

人を拒否すべきではありません。


この考え方にとらわれて人生を不幸にしている人が少なくありません。


たとえば、断れないことはなかったのに、断るのはわるいと思って結婚したとか、つきあい上断りきれずに保証人になったばかりに、入の後始末のために生きる人生になったとか。


日本文化はお互いに甘え合うことを是認しているので、人がこちらに甘えてきたのを拒否すると、自分も人に甘えられなくなり、その結果、世間さまとのつきあいの絆が切断されるかのごとき不安におそわれる。


それゆえ、多くの人は幼少期から「人を拒否すべきではない」という考えを植えつけられてきたのです。


しかし、よくよく考えてみると、この考え方は人生の事実に則しているとはいえない。


というのは拒否のない人生はないからです。

人生とは

人生とは時間の使い方のことです。


そして、時間を使う場面が四つあります。


第一は社会生活一般で、策二は学習生活で、第三が家庭生活で、第四が職業生活においてです。


この四場面のいずれにおいても「自分は幸福である」といえる人生が持てたらありがたいことてあるところが幸福になるのを妨、けるビリーフがあります。


今度、社会生活に不幸をもたらす四つのイラショナル・ビリーフをとりあげ、これを検討修正したいと思います。

こんな事もあります

とある女性の専門医師はエレベーター恐怖症の人には「一日二十回エレベーターに乗れ。それを三十日続けよ」と指示して、A(エレベーターに乗れないという出来事)を変えようとします。


この課題を強引に遂行させているうちに「エレベーターは思ったほどこわくはない」というふうにB(ビリーフ)が変わってくるのです。


B(ビリーフ)が変わるとC(感情、エレベーター恐怖)が変わる。


要するに受けとり方、考え方、ビリーフ、文章記述が変わると悩み(感情)が消えるのです。


そのためには自問自答(思考)することと、実際体験を重ねることが大切です。

こんなことありませんか? その9

自分の中のそういう部分を自分で受け入れる。

自分のエゴの一側面に間違いない、と見る事が出来たとき。

この場合、認めるということはただありのままの自分をそのまま受け入れるということにほかなりません。

そうすることでこの、ちっぽけなエゴの一側面を助長するのではないあり方を選択できるわけです。

もっと深くて自由で、あけっぴろげに愛することができるんですね。

こんなことありませんか? その8

前回に引き続き、ほかにもこんな例があります。

自分の自慢話は平気でするのに人が気取っているのを非難する人。

自分は会社から何かをかすめとりながら、他方で「たいした働きもしないやつは福利厚生に値しない」「税金どろぼうだよな」などと言って批判する人。

こういうふうに自分が批判している人々が実は自分とたいして違わない、つまり自分にもそういうところはあるな、と認めらたらどうなるでしょう?

その人たちを拒否する必要がなくなります。

なぜなら自分の中のそういう部分を自分で受け入れたからです。

それは自分のエゴの一側面に間違いない、と見ることができるようになったということです。

こんなことありませんか? その7

そこで、ヒントを一つ。

無意識の投影の例を一つあげようと思います。

ぬいぐるみのお尻をたたく幼児です。

「いけません」とか、「ダメでちゅね」などと言いながらぬいぐるみのゾウさんをたたく。

いかに悪いことをしたか、そしてお仕置きをしなくてはいけないことのほうがいかに大変かなどとお説教をした挙げ句、ダメ、ダメ、ダメと言いながらぶっている。

そのときその子は本当にゾウさんが悪いと思ってたたいているのですが、無意識では自分が悪いと信じているのだと考えられるのです。

こんなことありませんか? その6

実は、投影を解決方法があります。

投影を解除するカギは、その相手が自分の中の何を表わしているのかどんな感情や考えを呼び覚まし、何を象徴するのかに目を向けることです。

ですから課題は、自分に「イヤなやつ」と思わせているその人の中にある"イヤなところ"が、実は自分の中にもあるということをしっかり見つめましょうということです。

投影している間はそんなことは見落としているのです。

それを明るみに出すことが投影というかひぐかから解き放される手段だということです。

そのためには無意識に行っていることを意識できるようにならなくてはなりません。

こんなことありませんか? その5

ここが気付いて頂きたいところです。

その人を批判的に思い、感じ、そう口に出してしゃべったときから投影が始まります。

ここで自分が投影していることに気づかずにいると、自分の思いをプラスした投影を"事実"と勘違いしてしまいます。

そして、それをしゃべることは"事実"をしゃべったり感じたりしていると錯覚し、とても正直になったように錯覚するのです。

しかし、こんな"正直さ"は何の役にも立ちません。

こんなことありませんか? その4

重点を置くのはこれです。

ここで取り上げていることは、何だか知らないけれど自分にとってとにかくイライラさせる人のことです。

投影とは、そういう相手に対する洞察にプラスしてくっつけられた、自分の勝手な判断、個人的な反応を指します。

たとえばある人を「少し意地悪なところがあるな」と感じます。

その感じにさらに「だからダメなやつ」とか「つきあうのは危険」だとか余分なものをくっつけず、相手を断罪せずに、ただ、あるがままに見ることです。

この段階では投影はまだ起きていません。

神の飲水

北海道旅行へ行ったときに学びました。


積丹半島の神威岬にある神威岩にしても、海の守護神ではなくて、急に風向きを変えて舟人を困らせる存在であったし、知床半島の硫黄岳から落下するカムイワッカ、つまり神の飲水とよばれているものも、硫酸分が多くて、飲む者のいのちを縮めるおそろしい水であったそうです。


また各地に多いカムイミンタル(神の庭)、あるいはカムイロキ(神の坐るところ)などとよばれている地名も、あまり草の生えていない広場だったり、人の近寄れない山頂だったりして、善神・魔神の集って歌舞をするところだと伝えています。


それらの例を引いて「アイヌの人達の神という存在は、この世の中に実在して実生活の上に色々な陰騎をおとすものであって、多くは直接に食糧問題と密接につなかった動物神であるが、生活の上に小さな悪戯をする自然現象も、またはっきり魔神とはいわず神と呼んでいる」と『アイヌの神話』は説明しています。