パターン

実は・・・・志村さんが正式なメンバーになる前後でチームの笑いのパターンは変化しているのです!
皆さん、知っていました??

ドリフ再結成直後は、高木ブーさんを中心にいじり回す笑いだったんですが、その後すぐに加藤ちゃんを中心としたコントに変更されたんですよ~。
加藤ちゃん、いじりやすいですもんね。(笑)

そして、のっぽ(権力者役のいかりや)、でぶ(無芸大食の高木)、めがね(風見鶏、インテリ役の仲本工事)、はげ(ふてぶてしいおじさん役の荒井)、ちび(いじめられ役の加藤)という役割に。

加藤ちゃんがオチを取っていたんですよ~。
後は、いかりやさん中心にというか。4人共にいかりやさんにいじめられながらのコント。
私は、こっちのパターンもなかなか好きです^^

それと、音楽と笑いのコラボレーションの時代でもあったのです!!

大人気の為の努力

70年代になると「ハナ肇とクレージーキャッツ」に取って代わる感じでドリフターズが評判になり人気になりました!!大ブレイク!
これは、クレージーキャッツと同一で、「歌」や「コント」等、何でも出来たためです。

お笑いとしては、グループを活かした様々なパターンが生まれるっ。
特に『ドリフ大爆笑』の「もしもシリーズ」では、ボケと突っ込み以外の「呆然とするいかりや」で笑いを誘うという新しいパターンを生んだのですw

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いかりや自身は、自らのグループを「お笑いの能力は一流でない」と謙遜し、新生ドリフ初期のライバルであるコント55号に対抗する意味で、アドリブ無しの完全に練られたストーリー作り、練習でカバーし、土曜8時戦争と呼ばれるお笑い番組の視聴率争いで、長年にわたって優位の位置を勝ち取り&保ちました!!

「全員集合」の由来

元々ドリフは純一なバンドで、お笑いとは程遠~~かったのですが、桜井輝夫さんがリーダーになってからは、コミックの構成を音楽に取り入れるようになったんです。
そう、いかりやさんじゃなくて桜井さんだったのですよ!

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当時のドリフターズは出演の最初はメンバーが各ポジションでワンフレーズ演奏をして、いかりやの「全員集合」の一声で全員が舞台前面に出てきてコントを始めるというやり方。これは・・あれですよね^^
そう、あれがドリフターズのキャッチフレーズとして使われる「全員集合」の由来です!

コントの中身もそれぞれの楽器を使った音楽がらみの内容の物が多かったみたい。
そして新生ドリフになった後からは、グループの活躍はお笑いが中心となっていったそうです。

ずんどこずんどこ

前期バンド時代はともかく、新生ドリフはカバー曲や替え歌が主体のため、コミック・ソングとしては、「クレージーキャッツ」より低く見られがちだが、初期の多くの曲を手がけた川口真さんのアレンジは、独自の「ドリフサウンド」を作り上げました!真さんのアレンジは、ナイスですよ~^^

そして、1970年の「第12回日本レコード大賞大衆賞」を受賞し、同じ年に「ドリフのズンドコ節」で「第1回日本歌謡大賞放送音楽賞」をそれぞれ受賞しているんですよ~。結構あるんですよね。

ドリフの「ズンドコ節」は、1969年11月1日発売、オリコン最高位2位、売り上げ枚数115万枚以上という、時代を考えるととてつもない大ヒットを記録。(笑)
他にも、数十万枚のシングルヒット、それか10位以内にランクインした曲は4~5はありますね~。
その1970年には、他の民放などでもいくつかの賞を受賞をするというもう総なめですね。

名前の由来

新生ドリフ初期メンバーの名付け親は、当時の所属事務所・渡辺プロダクションの先輩格に当たる「クレージーキャッツ」のリーダー、ハナ肇だったんですよーー。

ドリフのメンバーにしてみると・・・・ハナの独断に満ちた判断で適当に名付けられた感じがしたようだったんだけれど・・・逆にインパクトがあって、なおかつ今でもみんなが名前を覚えられるようになりました。
先輩の力って大きいですよね、先輩はお大事に!

そして、後に加入した志村さんは自分のパパの名前から芸名を決めて、すわの芸名はいかりやさんから名付けられたんですよ~。

現在4人

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すわしんじの活躍ぶりにより、正メンバーではないが彼を6人目のメンバーと見なす解釈もある。
他に付き人は大勢在籍していたが、メンバーとして紹介されることは無い。
さらには、人形ながらもジャンボマックスがメンバー扱いされる記事も見受けられる。
いかりや没後には新メンバーを加入させる予定は無く、現在4人の構成となっている。

いかりやの著書によれば、いかりやは自分が加入した当初のドリフターズがそうだったように、荒井が志村に交代したような形でメンバーを徐々に入れ替え、自分のようにネタを創れる志村とすわを中心にした新メンバーでドリフを継続することを計画していた。

5人の構成で。

前期バンド時代のメンバーは、当時のバンド移籍文化もあり、移り変わりが激しかったが新生ドリフになってからはメンバーはほぼ固定され、5人の構成が取られるようになった。

初期のメンバーには、現在、催眠カウンセラーの吉田かずおが在籍していた。
ただし、荒井注の脱退宣言の際には志村けんが正式見習いとして加入し、一時的に6人構成となった。

所属事務所

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いかりや長介がリーダーに就任した当時は、渡辺プロダクションに所属。
1979年より渡辺プロダクションより分社した「イザワオフィス」にいしだあゆみらとともに移籍した。

過去に所属していたレコード会社は東芝音楽工業で、デビュー当初より在籍していた。
また、「ドリフの早口ことば」及びドリフメンバーが歌唱に参加していない『全員集合』使用曲「『ヒゲ』のテーマ」「ドリフのわんダードッグ」は、渡辺プロの関連企業だったサウンズ・マーケッティング・システムから発売された。

ビートルズの前座!!

いかりやが正式リーダーに就任した2年後の1966年にはビートルズ日本公演の前座を務め、僅か40秒の演奏時間ではあったが、前座用のステージが別に作られていたにもかかわらず、ドリフターズだけはビートルズと同じステージで演奏した。

これをきっかけに、ドリフが注目されるようになる。
なお、加藤茶は、ビートルズの前座はしたものの、警備が厳しくビートルズのメンバーには会えなかったと語っているが、いかりやは自著で(ドリフ側が)舞台から退場するときにすれ違ったと記している。

リーダーはもちろん・・・

一般的には、いかりや長介が正式リーダーになった1964年のドリフ再結成以降(新生ドリフ)が知られているが、結成は1957年。

結成当初からいかりやがメンバー入りするまでは音楽バンドとして活動していた。
楽曲主体による音楽ネタなどを得意としており、テレビや映画出演が多くなるにつれ、コミックソング、コントやギャグが主体となっていった。